震災後の神戸からの出発

 私の父は大工さんでした。子供の頃、建築現場で木切れを積み木がわりにして遊んでいて怒られた記憶があります。

 私は自然の生物が大好きで、将来は理科の先生になるのが夢でした。父の望みは私を工務店の後継にすることでした。
 進路を決める時に考えの違う父と初めて喧嘩をしました。この勝負は最初私が優勢でしたが、元気の無い父の後姿を見ていると、「親不孝をしたかな?」という気持ちになり、一転して建築の道に進むことに決めます。最後は父の作戦勝ちでした。

 そして工事修行のために大手の住宅メーカーに就職しました。最初は適正を見る!と言われて営業部に配属されましたが、いつまでたっても工事部に転属は無く、ずっと営業部でした。売る仕事も楽しかったのですが初心に戻り、作る喜びを感じたい気持ちが段々と強くなりました。
 そんな時、阪神淡路大震災が起きたのです。私は「そうだ!神戸に行こう、神戸で家づくりの喜びを感じよう。家づくりで神戸の町を元気にしよう!」そう心に決めて建築士の資格を取り、退職して知人の紹介で神戸の会社に現場監督として就職しました。

私が最初に受け持った仕事は震災で家が倒壊したお客様の担当でした。このお客様は基礎まで工事が進んだところで土間に小さなひび割れができたので工事担当者に相談すると「こんなもんですよ。」と言われて「ぜんぜん気持ちをわかってもらえない、担当者を変えて下さい」と怒らせてしまった状況だと聞かされました。

 「最初から大変な現場を任されたものだ」と思いながら現場に行ってみると確かに基礎の土間には髪の毛位の小さなひび割れがたくさん出来ていました。ヘアークラックと呼ばれるこのひび割れは構造的に心配するような問題はありません。しかし私はこのひび割れを目立たなく修理することに決めました。
 基礎のひび割れと震災で傷ついた心がどうしても重なって見えたからです。

修理方法を業者に聞くとセメントの粉を直接練り込むとよいと教わり、次の日セメントの袋を担ぎ現場に向かいました。
 手でひとつひとつ丁寧にひび割れにセメントをつめると、ほとんど目立たなくなりました。「ふっ!」と気付くと太陽が沈みかけていました。

 翌日、お客様にご連絡して現場に見に来ていただくと、びっくりして「ひび割れが消えましたね。どうしてもひび割れが心配で仕方なかったんです。」と言われ、涙ながらに倒壊した建物から子供を抱えて命からがら脱出した時の話をはじめました。

 その後、無事に棟上げの予定も決まり、毎週のように現場での確認と打ち合わせを行いながら工事を進めていきました。お客様も打合せの日を楽しみにされているようで「次の打合せが待ちどうしい。」と言われていました。
 お客様の顔にも笑顔が戻り、現場での打ち合わせも楽しくて瞬く間にお引き渡しの日を迎えました。奥様の実家が山形県で食べきれないくらいのリンゴをいただきました。

この記事の著者

m-kawano1265

河野 誠

河野住宅クリニック 代表

公認ホームインスペクター(住宅診断士)
2級建築士
宅地建物取引主任者
福祉住環境コーディネーター
住宅ローンアドバイザー
2級電磁波測定士

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